いじめられて自殺する子は優しい子なので、他者を攻撃することは難しいだろうね。
後々、自分の家族に及ぶ影響まで慮ってしまうだろうし…。
だからこそ、わが子がいじめられていることに気付いたら、親が代わりに暴力を振るってでも解決すべき。
少なくとも「こちらが暴力を使ったら、いじめている側と同じレベルになってしまう」などと奇麗ごとを言って、
あくまでも話し合いで解決しようとした結果、加害少年やその親に舐められて、どんどん状況を悪化させ、
ついに耐えきれなくなったわが子が自殺してからメソメソと手記を出版することになるくらいなら…。
「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」という遺書を残して自殺した鹿川裕史君の父親も、
『葬式ごっこ』の色紙に「きみのおやじはいい人だった そしてきみはもっとよかった」という、
完全になめ切ったからかいの言葉を書かれるくらい、「決して暴力など振るわない良い人」、
「だから恐れるに足りない」と認識されていたがゆえに、いじめは止まらなかった。
一方、修羅の国・福岡には、暴力による短期決戦で見事に息子を救った父親もいる。
●犯罪者となって息子を救った父親 ― 福岡県いじめ報復暴行事件 ―
1994年、福岡県内の市立中学校2年の男子生徒は、所属する野球部で同級生の男子生徒2人から
悪質ないじめを繰り返し受けた。
いじめが発覚し、学校側に「被害生徒と加害生徒と接触させない」と約束させた後もいじめが続いていたことを知った
被害生徒の父親は激怒し、校長に強く抗議するとともに、翌日、加害生徒2人を電話で自宅に呼び出した。
父親は加害生徒の手足を縛り、包丁を加害生徒の首に突きつけたり、包丁の峰で加害生徒の頭を殴るなどしながら
三時間半にわたって監禁して脅しつけた。
福岡県警は1995年3月15日、父親を監禁と傷害の容疑で逮捕した。
父親は調べに対して「罪を犯すつもりはなかったが、いじめをやめさせるという強い警告としてやった」などと話した。
また父親は、当時販売されていた書籍『いじめ撃退マニュアル』(情報センター出版局、1994年発行)を読み、
「子供の命は親が身体を張って守らなければ」と決意したとも話した。
父親の職場の同僚など知人らによると、父親は普段は「穏やかな性格」という証言が相次いだ。
また、地元の教育委員会にも「報復した父親の気持ちはわかる」と理解を示す電話が次々にかかってきた。
父親は3日後の1995年3月18日に釈放された。
返信する