先祖供養と水子供養について、僧侶として言えることは仏教に先祖供養や水子供養は説かれていません。
では何故、仏教に説かれていないのに日本の寺・僧侶のすべて(と言っても過言で無いでしょう)が
葬儀・死後の法要で生計を立てるようになったのかは次回に綴ることにします。
私は機会があれば「仏式葬儀にこだわる必要はない」ことをお話ししています。
そのとき、インターネットに掲載されていた女性の文章を紹介して葬儀・供養の在り方、
本来の仏教・寺・僧侶の在り方を問いかけ皆さんに判断してもらっています。
この女性とは面識はありません。以前開いていたブログでも紹介しましたが今回も掲載することを了承していただけると思います。
「送り送られる儀式のありかた」・「本来の寺・僧侶はどうあるべきか」を問いかける重みのある文章です。
「今生きている人のためのお寺・・・故郷若狭はお寺の多い町です。
雪の中を托鉢に歩くお坊さんのはちに、小銭を入れるのが楽しみだった思い出もあります。
親は時々寺の行事に出かけたりしていました。
でも、私にとってはそれ程身近なものではありませんでした。
『死んだ人の為にあるものだ』と感じていました。
ところが結婚・出産と年を重ねていくと、どんどん寺に対して疑問が膨らんできました。
長男が昨春結婚する時、人ごとではなくなりました。仏壇もお墓もある一人娘さんとのご縁だったのです。
幸い私どもにはまだ仏壇もお墓もありませんが、型通りに考えれば長男夫婦は大変です。
『何でお寺やお墓の事で、今生きている人間が困らなければならないの? 仏教って何?』と、
以前からの疑問が頂点に達しました。
『今、生きている人間の幸せを第一に』と自分で決めた時、すっきりとしました。
主人とはまだ一致する所までいきませんが、私は生きている人を困らせる様な先祖にはなりたくないと思っています。
親である私を忘れてくれていいと考えています。精一杯この世を生きる事……他に大切な事って何でしょう。
それからは、仏教やお寺などについての本を色々と読んでみました。
そして、本当に本当にびっくりしました。
本来の仏教とは生きている人の為にあり、先祖供養や葬儀とは直接つながるものではなかった事を知ったのです。
又、お寺のあり方に疑問を持って寺を飛び出した僧侶もあった事を知り、何だか気が楽になりました。
そして、仏教のすばらしさも少しは知りました。
もし、本来の仏教が正しい形で広められていたなら、どれだけ多くの人が救われた事でしょう。
と同時に、檀家制度で苦しんでいた先祖への思いで胸がつまります。
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