“すぐにあの約束を思い出せていれば、母にもう一度会えたかもしれない”
戦後になっても、父や兄には言い出せませんでした。
なぜ、あんなに大切なことを思い出せなかったのだろう。
悔やんでも悔やみきれず、被爆の記憶とともに長年胸の奥にしまってきました。
今話さなければと、危機感を覚えたのは10年余り前のこと。
次の世代に同じ思いをさせまいと、94歳の女性は語りはじめました。
(広島放送局 記者 牧裕美子)
●最後の別れ
「母の心尽くしのお弁当を持って家を出たあの日の朝が、最後の別れになるとは、思いもしませんでした」
去年の広島原爆の日、平和宣言の冒頭で読み上げられた被爆体験記の一節です。
この体験記を書いたのは、94歳の上田桂子さん。
16歳の時に、爆心地から約1.5キロの場所で被爆しました。
上田さんは、現在の広島市中区で母の時子さんと2人で暮らしていました。
4人家族でしたが父と兄は県外に出ていて、美容室を営む母が家計を支えていました。
上田さんは広島市中心部にある広島女学院に通っていましたが、当時は勤労奉仕として毎日のように軍服や軍靴を製造していた陸軍被服支廠などで作業にあたり、ほとんど授業はなかったといいます。
●8月6日の朝。
母は少ない配給から2人の1週間分の肉を炊いて、とっておきの弁当を作ってくれていました。
いつものように母と朝食をとったあと、弁当を持って迎えに来た友人とともに家を出ました。
家の前の路地に出る前に、ふと振り返って、軒先を掃除していた母に声をかけました。
「お母さん行ってくるね」
母は、ずっと見送ってくれました。
それが、母の姿を見た最後になるとは、このときは思いもしませんでした。
以下ソース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230804/k1001414782... 上田さんの母 伊勢村時子さん
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