★まるゆ建造に「生命を託す」男
新たな史料を発見したのは、太平洋戦争中の日本軍の兵器を調査してきた研究家・国本康文さん。「第七陸軍技術研究所・参謀本部第十課」がまとめた「Germania造船所に於ける潜水艦建造に就きて」だ。ドイツ軍の潜水艦の設計図や、各種の実験データなどがとじ込まれている。
巻末には、赤字で「之書ハゆ号研究ニ貢献セシコト大ナリ」「此書ニ我生命ヲ託ス(この書に、我が生命を託す)」と書かれ、「Bnsak」のサインが見える。陸軍技術研究所で船舶の研究をしていた、塩見文作(ぶんさく)陸軍技術少佐のものと思われる。
★ムチャ振りされた塩見技術少佐
塩見技術少佐は戦後、回想録の中で陸軍潜航輸送艇に関わることになった経緯を記している。発端は、南太平洋のガダルカナル島などで、補給がうまくいかず、陸軍部隊が孤立したことだった。1943年3月、塩見はある参謀から呼び出された。
「(西南太平洋の)部隊長が飯盒(はんごう)に残った最後の一粒のご飯を大切そうに口に運ばれるのを涙なしには見ていられなかった。このようなことのあるのは実に技術部隊の責任である。速やかに輸送潜水艦を作れ」(※「陸軍輸送潜水艇(ゆ)の思い出」『兵器と技術』274号)
目的には異存ないが、塩見の頭には「なぜ陸軍が潜水艦を?」という当然の疑問がわいた。
「反問した。海軍の潜水艦が補給しているのならこれを強化してはいかがと。しかし、その参謀がいうのには『たとえば同じように悪い状況にある海軍部隊と陸軍部隊とが二つの別の島に存在した時、補給にあたる海軍潜水艦の艦長のとる舵は人情としてどうしても海軍部隊のほうに自然に取られて、どうしても陸軍部隊は後になる』という」(「潜水輸送艇(ゆ)の急速建造」『陸軍兵器総覧』)
前線では多くの兵士が、食糧さえなく、飢えと戦っているのが現実だった。塩見は参謀から手を握って頼むと言われ、直属の上司にも「国を救うのだ」と懇願され、引き受けることになった。
示された仕様は、食糧10トン以上を輸送できること、西南太平洋海域、インド洋方面、アリューシャン方面へ到達できること。これだけでも大変な技術が必要になるが、さらに塩見はとんでもない条件を課された。
●8月迄に少なくとも20隻を必要とする(将来的には400隻)
●海軍技術に依ることなく実施する
●既陸海軍監理工場を使わぬこと
●弱体工場を指導し試作を決行する
これらの条件を示されたのは4月。4か月後に潜航輸送艇を20隻、専門外の工場で造れというのだ。
以下ソース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230810/k1001415619...
返信する