昔の騎馬ってベェクでもねんだから肉斬ったら終わりじゃね?


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001 2024/05/02(木) 14:05:38 ID:gZuF9wguYw
足軽がバシッと斬ったら馬も痛いじゃろ

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002 2024/05/02(木) 14:07:38 ID:Kn3nuIgV8g
武将は馬から降りたほうが強い、、
だから馬に乗ってるところを狙う

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003 2024/05/02(木) 14:27:57 ID:FZzTgZBw66
004 2024/05/02(木) 14:30:33 ID:C5m9dZvxvU
将を射んと欲すれば先ず馬を射よって故事成語があってな
ってツッコんじゃいけないところか

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005 2024/05/02(木) 14:33:50 ID:XPOE7/QUsg
戦国時代の馬は
今でいうポニーぐらいのサイズだったらしい

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006 2024/05/02(木) 15:13:37 ID:5f1on83.7Y
>>5 日本在来馬ってサラブレットよりごついイメージだったけど
(昔、子供の時駅前の商店街のイベント?で馬車の馬が図鑑やTVで見てたサラブレットよりデカくて足も太かった)
けど、実際の日本在来馬ってほんと小さいかったんだね 初めて知りました。
https://equia.jp/trivia/post-8249.htm...

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007 2024/05/02(木) 15:21:10 ID:WfH33jjQDQ
そのための替え馬

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008 2024/05/02(木) 16:39:28 ID:JmTnOo8fTU
神様の指示かなんかですか?

「ベェク」または「ゴト」を使って短文を作りなさい

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009 2024/05/02(木) 17:30:10 ID:9WhtsSmS72
[YouTubeで再生]
https://bunshun.jp/articles/-/51646?page=...
鎌倉武士にとっては、なんといっても弓こそが武士の象徴であり魂だったのです。武士を褒め称える言葉として、「海道一の弓取り」とはいわれても、「海道一の刀使い」とは呼ばれません。
『平家物語』でおなじみの那須与一や、強弓使いとして源為朝が後世まで語り継がれるのもそのためです。荒武者のイメージがない源頼朝も、『吾妻鏡』では弓の名手として紹介されていて、
武士の鑑であることが強調されています。

機動力を持って遠距離から攻撃した方が有利なのは今も昔も変わりません

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010 2024/05/02(木) 17:55:51 ID:FgeR3CaSSY
矢に限りがあるから
槍にも勝機があったんだし
盾?あれば矢あんまし怖くないだろう。

馬が小さいと言うけど、昔の日本人は小柄だったのかね?
騎馬武者が馬に乗るのは体力温存もかねてじゃねーの?
歩いたり走ったりしなくてすむワケだし。

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011 2024/05/02(木) 19:46:21 ID:2.LMNzWPPE
>>1
だからよー
ニュース二面はソースの明示は必須なんだよ
出来ないならスレ立てしちゃダメだ
−↓−sage−↓−

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012 2024/05/02(木) 21:26:40 ID:ZFPCC9C50.
戦国以降は騎馬には2~3名の徒歩で追う従者が必ずついてた。
中世の騎士も同じで中世の騎士は従者に加えて犬を連れていた。
理由は落馬すると起き上がることも出来なくて速攻、殺されてしまうから。
日本の武士はも落馬すると引きずり倒されて「鎧どおし」という短刀で首や喉を
一刺しされて殺されるから敵兵を寄せ付けないように武装した従者が必ずついてた。
例えば前田利家配下で後に加賀藩の家老にまでなる村井家の家祖である村井長頼は
片時も離れず随行する従者だった。
戦は既知の通り長弓の打ち合いを経て長槍を持った足軽の対峙から始まり、
混とんとした状況になると武者は馬を降り、柔術で相手を倒してから先述の鎧どおしでとどめを刺す。
よって刀は使わない。持っているし馬上で振るうけれど実際には手番は少ない。
当時の火縄銃は有効射程は概ね30m、運よけば40m程度だったので馬で殺到すると
あっという間に蹂躙されるから一応馬には有用性があった。だから長篠では場柵を設けたわけね。

馬も同様だが源平合戦では、それまで不文律、暗黙の了解という戦のセオリーを源氏側が尽く破った。
一応、戦争にもルールがある(現代ならジュネーブ協定など)わけだが、そのルールを尽く破り
勝つためなら何をしも良いなスタンスで平氏に勝った。それはもう枚挙に暇がない事例があるわけだが
中でも「水主(かこ)」、これは船を操船する民間人だが、その水主を狙って殺した。
そうすると船は迷走し有利な位置取りどころではなくなる。平氏は最後の最後まで先例に習い水主への
危害は加えなかった。同様に、馬に対する殺戮も長らく禁忌とされていた。
ま、戦国時代も後期になると出自の怪しい輩が台頭していたから、さもありなんなんだけどな。

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013 2024/05/02(木) 21:33:11 ID:ZFPCC9C50.
幕末の池田屋騒動では、9名を殺するのに、延べ20名で5時間かかってる。
チャンバラで人を殺すというのは想像以上に困難な事。
で、刀は斬るためには使わない、突くために使う。実戦ではね。
太刀を合わせると一瞬で刃毀れしてしまうから、斬るなんて無理なんだよ。
切腹の介錯などだと可能だけどね。

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014 2024/05/02(木) 22:03:01 ID:ZFPCC9C50.
源平といえば「板東武者」の起源は更級日記にあるように朝鮮半島から渡って来た百済の遺民。
百済が崩壊した際に大量に日本に渡って来て板東(関東)に定着した。
しかし鎌倉期までには彼らに主従していた無頼の輩が武士層を形成し、そこの棟梁に都(京都)から
下った人材が就くというスキームを繰り返してきた(例・平将門)
よって板東武者自体が、礼儀も行儀も慣習も何も知らない無頼の輩だった。
鎌倉期に、例の北条氏が京都で6位や7位という身分とも言えないような官人だったものが関東に下ると
今でいう「まるでアマゾンの奥地にニューヨーカーが舞い降りた」程度の扱いを受けた。
ロシアのウクライナ侵攻でプリゴジンが「囚人部隊」を結成したが、内実は近いものがあった。
そんな板東武者の戦い方は、例えば砦を守る側だと「煮えたぎった糞尿」要するに、弁や尿を大鍋で
炊いて、それを掛けたりと、、、そんな戦い方だったので強かった。

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015 2024/05/02(木) 22:45:28 ID:ZFPCC9C50.
関東と言えば、江戸の中期までは醤油もなく、料理と言えば塩や醤(ひしお)や味噌をつけただけ。
酒も同様で、鴻池が菱垣廻船で江戸に運ぶと「下りもの」として重宝され、醤油も和歌山の湯浅から
帰りの北前船で運ばれるまで江戸には醤油さえなかった。
時代劇中の嘘、例えば江戸時代には屋敷に表札はないとか、色々とあるけれど最も嘘なのは江戸の文化レベル。

文化レベルと言えば歌舞伎の「江戸三座」、中村座・市村座・森田座は順に大坂、京、摂津から江戸に
呼ばれて出てきた座で、江戸に来ると江戸の他の座を一蹴した。レベルがダンチだった。
で、江戸期を通して幕末から明治にかけても尚、経済学者や社会学者が歴史学者とは異なる観点で
江戸(東京)が上方(関西)に追いついたのは1923年と異口同音に断じている。
実際、GRP(都市の域内総生産で国で言うGDPのようなもの)で東京が大阪を越えたのが1923年。

時代は遡るが、源平合戦の折に木曽義仲の軍勢が都で横暴を働いたとか、視点を変えれば「当たり前の話」で
行儀もなにも知らない板東武士が普段通りに振る舞ったに過ぎない。
のようなことも相まって、1923年までは未開の地にして野蛮な民ということも言えるわけで、巷間、京都人が
関東人を見下すのには「一定の説得力」はある。

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