戦国以降は騎馬には2~3名の徒歩で追う従者が必ずついてた。
中世の騎士も同じで中世の騎士は従者に加えて犬を連れていた。
理由は落馬すると起き上がることも出来なくて速攻、殺されてしまうから。
日本の武士はも落馬すると引きずり倒されて「鎧どおし」という短刀で首や喉を
一刺しされて殺されるから敵兵を寄せ付けないように武装した従者が必ずついてた。
例えば前田利家配下で後に加賀藩の家老にまでなる村井家の家祖である村井長頼は
片時も離れず随行する従者だった。
戦は既知の通り長弓の打ち合いを経て長槍を持った足軽の対峙から始まり、
混とんとした状況になると武者は馬を降り、柔術で相手を倒してから先述の鎧どおしでとどめを刺す。
よって刀は使わない。持っているし馬上で振るうけれど実際には手番は少ない。
当時の火縄銃は有効射程は概ね30m、運よけば40m程度だったので馬で殺到すると
あっという間に蹂躙されるから一応馬には有用性があった。だから長篠では場柵を設けたわけね。
馬も同様だが源平合戦では、それまで不文律、暗黙の了解という戦のセオリーを源氏側が尽く破った。
一応、戦争にもルールがある(現代ならジュネーブ協定など)わけだが、そのルールを尽く破り
勝つためなら何をしも良いなスタンスで平氏に勝った。それはもう枚挙に暇がない事例があるわけだが
中でも「水主(かこ)」、これは船を操船する民間人だが、その水主を狙って殺した。
そうすると船は迷走し有利な位置取りどころではなくなる。平氏は最後の最後まで先例に習い水主への
危害は加えなかった。同様に、馬に対する殺戮も長らく禁忌とされていた。
ま、戦国時代も後期になると出自の怪しい輩が台頭していたから、さもありなんなんだけどな。
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